三沢かずこ展

青の乱

山本 忠勝

青。
 さまざまなイメージを喚起する色である。
 宇宙から見た地球の色。地球で見る海の色。空の色。あるいはイエスを抱いたマリアの色。東大寺二月堂に幻影となって現われた不可思議な女人の色…。
 とりわけ天体では月のシンボルになっている。
 気高さと明るさと、それから静けさ。
 なかんずく、深い静けさ。
 三沢かずこがひたすらに描く青もそのような青だった。
 …だった、八年前までは。
 だが、2010年3月。
 神戸で再会した彼女の青は、動乱のなかにあった。
 沸騰。躍動。炸裂。
 あの青がこんな動きを始めるとは。
 個展「NATURE」。
 
 カンヴァス全体に広がる青、どこまでも深い青、そしてそこに溶け込むように配されるいくつかの繊細で小さなモチーフ。
 それが三沢かずこのスタイルだった。
 そう、かつては。
 青も音楽なら、きわめてデリケートなそのモチーフも音楽だった。
 コンチェルト・オン・ブルー。
 大空と、そこでひらひらと閃く蝶のような。
 海洋と、そこを漂う色鮮やかなヨットのような。
 宇宙と、そこを渡るほの明るい星雲のような。
 
 八年前の神戸での個展のあと、むしろヨーロッパの都市での展覧会が多くなったが、そこで評価されたのもその深さと繊細さであった。
 東洋のブルー。
 東洋の神秘。
 東洋の静けさ。
 もちろん彼女にもその明快な評価は快かった。
 日本への憧憬にこたえようと努めてきた。
 
  だから神戸の美術ファンは、たぶん今回の展覧会(2010年3月6日~17日、ギャラリー島田)でもそのような繊細で精緻な世界に出遭えるものと思っていた。
 完璧に完成を遂げた青の世界。
 洗練がさらに進められたことだろう。
 その進化と深化に第一の関心があったのだ。
 裏を返せば、あそこまで突き詰められたあの世界にあれを根底から揺るがすほどの激動はもうないだろうと、暗にそう信じられていたということでもあるのだが。
 
 だが、違った。
 驚いたことに、静謐な青は消えていた。
 青がたぎっていたのである。
 ぐいっと立ち上がってくる青があった。
 たとえば作品「光」がそうだった。
 とめどなく降り注ぐ青があった。
 たとえば作品「恵み」がそうだった。
 激しく揺れ動く青があった。
 たとえば作品「響き」がそうだった。
 強く弾き合う青があった。
 たとえば作品「遊ぶ」がそうだった。
 
 青が変動を始めていた。
 青の乱…。

「空」


 「ちょうどヨーロッパでの展覧会がひと区切りするのに併せて、故郷の松本市(長野県)から個展のお誘いを受けたのです。思いがけないことでした。個展は去年の春に市立の信州新町美術館で開いてくださいましたが、実はそれが転機になったのです」
 思いがけなくも扉が外からこじあけられた、といえなくもない。
 ことはむしろ物理的に始まって、それが精神を大きく動かすことになる。
 
 美術館の大きな壁面を作品で埋めるとなると、やはり100号クラスの大作がそこそこ必要になってくる。
 量が質に転位する微妙な臨界点が美術には必ずある。
 ヨーロッパでの展示では、搬送の制約もあって、比較的小さな作品が主体であった。
 もちろん欧州諸都市のギャラリーも流通に乗りやすい小品を喜んだ。
 制作の呼吸もいつしかそれになじんでいた。
 
 だが。
 「物理的に大きなキャンバスに向かうということ、それは物理的に絵を拡大すればいいというようなことではないのですね。構成にしても形態にしても色彩にしても、いままでの方法では納得しきれないものが次々あらわれてくるのです。もう体全体で、心全体でぶつかっていかないと解決できない」
 端正さを貫いてきた画家が、なりふりかまっていられなくなったというべきか。
 待っていたのは青の戦場だったのだ、肉体の、そしてそれ以上に精神の。
 そうして仕上げられた100号の大作は十数点。
 展覧会場には青のエネルギーが渦巻いた。
 氾濫した。
 
 「気がつくと、じぶんをもっと出していいのではないか、とそんな気もちに変わっている私が私の絵の前にいたのです」
 
 1950年の生まれである。
 中学校を卒業する15歳までの多感な時期を長野で過ごした。
 「私の青は、信州の青なのです」
 そして再びいま、故郷が青の新しい方向を指し示したようである。
 いのち漲る青…。
 
 信州の青が、白の神戸でまたいちだんと映え始めた。
 
 ちなみに青は、月と同時に太陽系最大の惑星・木星を示す色でもある。
 木星は発展と豊饒と、そしてより大きな幸運のシンボルだといわれている。

  2010.3.23 Tadakatsu Yamamoto


 

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