坪谷令子

トウガンに宇宙が見える

山本 忠勝


 注連縄(しめなわ)を張り巡らした大きな木を村で見かけることがある。神様の木だという。ところでそれはその鬱蒼とした木そのものが神のたたずみとして村人の心を打つのだろうか、それともその木が影を落としているその涼しげな場所こそが神のたたずむ地点として人びとに訴えてくるのだろうか。坪谷令子の野菜や果実の絵を見ていると、タマネギやザクロの輝きもさることながら、それらが描き込まれているその場所がとりわけ神聖な一角なのだとわかってくる。その一点に目を凝らすと、そこから宇宙が見えてくる(坪谷令子個展 2008年1月26日~2月6日 神戸・ギャラリー島田)。

「いのちは まるい 開く」

 「いのちは まるい」。それが、今回の個展の直接のテーマである。ジャガイモやらダイコンやらキウイやらカキやらイチゴやらリンゴやら…。もう少しで百種にも届く野菜や果物や草花の数々が精緻に、克明に描かれる。まっすぐな形態把握とクリアな彩色が、みずみずしい輝きを放射する。確かにそこには生き生きとしたいのちがある。
 だがそれだけのことなら、いのちはこんなにも光あふれるものである、とひとこと言えば、もう骨格を語り尽くしたことになる。むろんいくらでも喋れるが、あとは言葉の変奏だ。これをもっと熱っぽく語りたいと掻き立てるのは、じつは野菜や果実が描き込まれているその場所の、大胆で、いささか凶暴な配列、むしろ熱狂的な“陣取り”のゆえである。
 「踊る」と題されたブドウの絵。そこでは紫色に熟した房が、画面の上方に異様なほど偏って現れる。中心部の空間はただ圧倒的な虚無の広がりなのである。「包む」と題されたホオズキと風船カズラ。ここでも二つのモチーフが上と下にきっぱりと二分され、真ん中は真っ白なままである。そして「呼ぶ」というイネやムギの作品では、今度は全部が下の方に配されて、画面にはもっと大きな空(くう)の領域が開くのだ。なんでそんな配列が?
 「真っ白な画面を前に最初は心が定まりません。私はわずかに現れる最初の感覚に従って、薄い墨でどこかそのあたりをまずさっと刷くんです。そこに風をさまよませます。ええ、ドライヤーで。すると墨の表面にさざ波が立ち、強弱が生まれ、広がり、飛び、思いがけない形が生まれて、そこで私の心も定まってくるんです。この始めのプロセスにエネルギーの大半を費やしてしまうと言ってもいいでしょう。へとへとです。そしてその墨の上に野菜や果物を描き込んでいきますが、ここはもう歌うような、とても楽しい時間です」
 あるいはまだ描かれないうちから白い画面が潜在的に持っていた位置ごとの多様な密度のせいかもしれない、あるいはそのときの作家自身の心の地図の等高線のせいかもしれない、あるいは星々の運行のせいかもしれない、何かがこうして場所の強度を決めるのだ。
 「決まると、それは、もう、ありがとう…。なにものかに感謝しないではいられません」
 このトウガンは美しい。だが緑の果皮と白い果肉が美しいだけではない。トウガンが描き込まれているその場所がそれにもまして美しい。わたしたちはトウガンに打たれながらその場所に揺すられる。たぶん神のたたずむ地点である。つまり宇宙の見える場所なのだ。
 なるほど、村は神の木を持つことで宇宙に開かれた村になる。

2008.2.2 Tadakatsu Yamamoto

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