マウロ・イウラート&伊藤ルミ デュオコンサート

――ベートーヴェンの春…蝶の舞い、荘子の夢―

山本 忠勝

一羽のアゲハがふいに羽化を遂げたのだった。
 最初のゆるやかなはばたきがさざなみのように一対の翅に広がるや、大きな蝶がふわりと日差しのなかへ舞い立った。
 マウロ・イウラートのヴァイオリンと伊藤ルミのピアノから立ち上がってきた幻視である。
 曲はベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番。
 初春の演奏に訪れた、まさしく「春」の奇跡であった。
 


 「春」はベートーヴェンの十曲のヴァイオリンソナタのなかでもとりわけ深いゆらぎを刻み出す作品だ。
 ここでいうゆらぎとは、無論ぶれるという意味ではない。
 宇宙のゆらぎが生命を生み出したと語るときの、あの含意に満ちた言葉の響きを、ここにも持ち込みたいのである。
 深いところから深いものがあふれてくる特別な裂け目のことを言いたいのだ。

 
 象徴的にも「春」というこの通り名そのものがすでにそのゆらぎの幾分かを暗示する。
 この曲をそのように呼んだ最初の誰か、その誰かはフロイトのはるか以前に、すでに優れた精神分析家であったにちがいない。
 むしろ作曲家本人よりこの曲の基層を深くつかみとったとそう見てとれるからである。
 三十歳のベートーヴェンがこれを書くにあたって何を深層で目指したか、それをおそらくは作曲家以上に的確にこの一語で言い当てた。

 
 ベートーヴェンがそのとき深層で求めたもの。
 それはベートーヴェンがベートーヴェンの呪縛を超えることではなかったか。
 その呪縛とは。
 重厚な主題、強固な構成、厳格な精神。
 そしてそのとき求めていたものとは。
 軽快な主題、柔軟な構成、自由な感性。
 つまり厳しい冬から柔らかな春への跳躍。
 いうまでもなくわたしたち聴衆は常に後知恵で音楽を理解するほかないのだが、マウロとルミの水際立ったパフォーマンスが、まさしくその冬から春への劇的ジャンプをわたしたちに悟らせてくれたのだ。

 
 自然と体が浮き立つようなピアノとヴァイオリンの饗宴だった。
 第一主題にいちはやく飛翔への低い身構えを刻印する下降音型の、そのさばきの鮮やかさ、そしてそこから一転明るい希望へと向かっていく上昇のパッセージの軽やかさ。
 それは羽化へのダイナミックなゆらぎであり、たぎりたつような飛翔へのふるえであった。
 そして第二楽章のゆったりとしたアダージョの伸びやかさ。
 それは上昇気流をつむぎながら中空を渡っていく平行飛行の自由と平安と至福であった。
 そして第四楽章のシンコペーションへの深い切り込み。
 それは中空の舞踏に酔いしれて、イカロスさながら灼熱の圏域にまで突進しそうな、危険な極限の歓喜であった。

 
 そしてとっておきは第三楽章のスケルツォ。
 たった一分あまりのこの楽章をあえて最後に回したのは、ほかでもない、最も大きな奇跡がここで起こったからである。
 そこでは絶壁に挑むような厳しい音階の上昇下降が立て続けに現われる。
 ふたりの奏者はその極限域で危ういバランスをとりながら、しかも特筆すべきことに、全霊をかけた一騎打ちのように対峙した。

 
 …羽化したのは、実は連星のように緊密な円で舞い合う二羽のアゲハだったのだ。

 
 ヴァイオリニストの左手の一瞬一瞬のポジションがまさに光の破片のように閃いた。
 ピアニストの右手と左手の跳躍が尖った水晶のように突き立った。
 ふたりの奏者はいまや譜面に忠実であるよりも、むしろみずからの呼吸を信じ、たがいの呼吸を計りながら、その自由な刻々の決断で未踏の地平を切り開いていたのである。
 おそらくは一秒の何十分の一か何百分の一、互いの音を快活にずらし合うことでより高次の調和に到達する、その錬金術にも似た化学変化が継続して起こっていた。

 
 時間の微分的な隙間に溢れる無限の自由、…恐ろしいばかりの、完全な。
 その極限の自由の上での、むしろ目のくらむような刻々の選択と刻々の決断。
 短いが、しかし高く屹立する創造の連峰。
 能楽に印された日本の芸能の一つの奇跡、小鼓とシテとの間の一対一の果たし合い、あの乱拍子がまさしくそうであるように。

 
 第三楽章はふつうは前後の楽章の橋渡し、間奏曲のように扱われる。
 だが明晰な意識があってのことか、それともむしろ暗い予感に導かれてのことだったか、あるいはむしろ突き上げてくる衝動に駆り立てられてのことだったか、ふたりの奏者はこの極小の楽章を逆に曲全体の頂点に押し上げた。
 峻厳なピラミッドが建てられた。
 革命が起きたのだ。
 するとたちまち深い謎も解けたのだった。
 ベートーヴェンがこの異様な楽章を、この唐突な楽章を、なぜここに置かないではいられなかったか。
 それはおそらく間欠泉の破裂のような、デモーニッシュな深層の欲求の劇的噴出だったのだ。
 完全な自由への跳躍。
 すなわち完璧な創造への発熱。

 
 荘子はある日とても幸福な夢を見た。
 夢の中で蝶となって飛んだのだ。
 自由このうえない空中の舞いだった。
 かれは夢から覚めて反芻した。
 この荘子が蝶の夢を見たのだろうか、それともここにいるこの荘子はあの蝶が見ている夢なのか。

 
 そのときベートーヴェンが蝶に羽化して舞ったのか、それとも蝶がベートーヴェンへの羽化を遂げて舞ったのか。


 「マウロ・イウラート&伊藤ルミ デュオコンサート」は2015年3月14日に神戸市立灘区民ホールで開かれた。
 マウロ・イウラートは1977年トリノ(イタリア)生まれのヴァイオリニスト。ウィーン大学の派遣プロジェクトで2003年に来日して徳島文理大学の準教授に就任。以後、アンサンブル神戸で首席コンサートマスターを務め、また大阪フィルハーモニー交響楽団やオーケストラ・アンサンブル金沢などに客員のコンサートマスターとして出演している。愛器コッラ・デッラ・キエーザ(1690年、ジョッフレード・カッパ作)とは運命的にも来日後に遭遇、生涯の伴侶となった。超絶的な演奏には鋭い鬼才の感がある。神戸市在住。
 伊藤ルミは神戸市生まれのピアニスト。早熟の才を発揮して18歳でソリストデビュー。ヨーロッパとりわけチェコの音楽界との交流が深く、チェリストのミハル・カニュカ、ヴァイオリニストのフランティシェック・ノボトニーとツアーを定期的に重ねている。すでに円熟の域にあるが、近年はブラームス、ショスターコヴィチ、ベートーヴェンなどの演奏を通じて新たな境域へも踏み出し、なかんずく曲への斬新な解釈がファンの間に新鮮な衝撃を広げている。おおらかで優美な鳩から鋭利で高貴な鷹への変身が進行しているようでもある。ことし秋にはソロリサイタルも開かれる。
 ヴァイオリンソナタ「春」に起こった革命は、イウラートのイタリア的なリベルタ(自由)の精神と超絶技巧への深い愛、そして伊藤の神戸的自由と創造の精神の、この二つの融合反応によって生まれたとも解釈できよう。重厚なドイツ的伝統とその呪縛から解かれることで、却ってベートーヴェンの深層が切り開かれたともいえそうだ。
 この日のコンサートは、ほかにメンデルスゾーンの「歌の翼に」(アクロン編曲)、イトウユミの「東北に寄す 三つの民謡から」、江藤誠仁右衛門の「種は眠る」、クライスラーの「プレリュードとアレグロ」、タルティーニの「ヴァイオリンソナタト短調 悪魔のトリル」、ジャゾットの「アルビノーニのアダージョ」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が演奏された。

2015.3.21

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