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花井正子展 紀州 on the Road

恩寵のドライブ

 

会場で画家がヴァルター・ベンヤミンの名を口にしたのがどんな脈絡でだったか思い出せない。しかし花井正子の作品をめぐってベンヤミンを引くなら、『一方通行路』のよく知られた次の一節がふさわしいことだろう。

「街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むのか、あるいは書き写すかで、違ってくる。(……)道を歩く者だけが、道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でしかないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に拡がる眺望を、曲折するたびごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように、呼び出すさまを経験するのである。」(野村修訳)

長くイラスト業界の第一線で活躍し、名だたる作家たちの装画を手がけてきた。ファインアートの世界に転向して8年、神戸での発表は5回目となる。前回2021年同様、紀州をテーマとした作品展「紀州 On the road」がギャラリー島田で開催された(2023年9月30日~10月11日)。

オン・ザ・ロード――もちろんジャック・ケルアックを踏まえてのタイトルにちがいない。ビートニクのバイブルは『路上』の邦題で読み継がれてきた。
それにしても、作家の歩む道/roadとはどのようなものかと思う。
その理想は、しばしば賛辞としていわれるように、誰もたどったことのない新しい道を切り開くことだろうか。

上のベンヤミンのテクストの主眼は、テクストというものへのアプローチの仕方を説くことにあった。「中国工芸品店」(“Chinawaren”<陶磁器>)と題されたその断章は、筆写(写本)という行為が中国文化を理解するひとつの鍵だという、いささか突飛とも思える結末へと帰着する。
しかし文字とは、確かに私たちのペンによってたどられるひとつの道であり、とりわけ漢字というのは、ネイティブの私たちにとってもしばしば複雑に曲がりくねった難所となる。「薔薇」の回廊や「鬱」の迷路の前で私のペン先はいつも途方に暮れる。
ところで、いまひとりの書家がいて人の心を打つ文字を書いたとしたら、それはその字が世に生まれて以来無数の筆にたどられてきたその同じ道を、たったいま初めて切り開かれたかのようにその筆がたどったからではないだろうか。

本質的な作家の足もとには、むしろ道の方がそのように原初的な姿をあらわす――花井の歩みを前に、そんなことを考えさせられる。

 

大地

紀州、熊野というのはプルースト的な意味で、まさに「土地の名」である。
『失われた時を求めて』の語り手が、ノルマンディーかブルターニュあたりの海辺にあるという“バルベック”に「嵐の王国」を夢想したように、私たちは紀州の名に神秘を帯びた深い森と山々を思う。
その神秘性はまた、いくつかの人の名と分かちがたく結びついている。空海、一遍上人、南方熊楠……しかし現代の私たちにとっては何といっても小説作品を通じて紀州、熊野のイメージを決定的な形で与えた人、中上健次。ひとたび彼の作品に接したあとでは、その土地を神話的な運命と暴力に満ちた場所として思い描かずにはいられない。

「紀子が、苦しげに尻を振る秋幸を救けるように口づけし、腰を動かす。紀子はまた声をあげた。それは停めた車の窓の外の、日を受けて色が変わる竹藪が声をあげたのだった。秋幸はつるはしでめくり上げた土を思い出した。土はよじれる。土は秋幸の息の動きに合わせて、腰を持ちあげ、腰を振る。」(『枯木灘』)

日々、土方としてつるはしを土に振るうことに秋幸の生の充足はある。いくぶん図式が前に出るようでも、描かれようとしているのは、大地そのものと交接するような濃厚なエロス的世界。
2021年に開かれた花井の個展「紀州叙事詩」(10月2日~13日、ギャラリー島田)が描き出していた作品世界は、まさにそのようなイメージと通じていた。

夜の山並みが描かれた作品は、横たわる素肌の女性のシルエットのようだった。
同じ山林の光景を描いた三枚の組作品の、すべてがピンク色に染まった夕焼けの時刻を描いた一枚は、燃え上がり渦をなす陰毛と一体になり、誘うようにこちらに向かってゆるく口を開く女性の下腹そのものだった。

ただ不思議だったのは、画家自身にはまったくそのようなエロティシズムへの志向も意識もないようだったこと。
これほどにあからさまなのに?
紀州を描くとは、そうして暴力的なまでにその土地との同化を強いられる経験なのかと、すこし怖ろしくもなる。
 

ギャラリー島田ホームページより

浮遊

ところが、2022年にART SPACE 感(京都市北区)で開かれた個展「昼の月 2nd」(4月15日~24日)で示されていたのは、そうした大地への志向とはまた別のモモ――ちがう、別のモノだった。
いや、というのも、青い桃の月がぽっかり浮かんでいたので。
そう、時がとまったように、あの空のあたりに。

これは、大地に囚われてあることへの拒絶――いや、拒絶という重々しいモノでもなく、もっと自由で気まぐれな浮遊。
量感たっぷりに、いくぶん物憂げに、しかしこの桃の月はたぶん、地球の引力などに囚われず追いかけっこをやり、自在に変化(へんげ)を繰り返す稲垣足穂の「お月様」と大いに親和性をもつものだ。
あるいは、タルホが神戸・西灘の海岸で目撃したという「青いほど白いお尻」(『少年愛の美学』)。

その背景をなす灰色。パステルを塗り重ねたその地層の底から、スクラッチのひと斬りで深層の青を浮かび上がらせる。それも不思議と滲むように浮かび出るのだ。
作家自身は「銀」と表現するが、むしろ鉛の板のようにみえるマチエール。おそらく生まれ抱いてきた透明のアクリル製のタブラ・ラサに記憶の澱がこびり付き、こんなに重たげな姿になってしまった。それを引っ掻くと、こんなにも美しい透き通った色が、傷口に滲みる体液のようににじみ出る。

するとあの桃は、まさに甘美な記憶の果実なのかもしれない。しかしそれは記憶が甘やかで懐かしいものだということではない(詩人でもある作家が謎めいた言葉で「張りつめた」と表現するのはそのことにちがいない)。
そうではなく、数千本のバラからただ一滴のオイルを精製するように、むしろ青ざめた悲しみの記憶の果実から甘美さのエキスを絞り出す、花井の絵画とはそのような営みである。
 


エーテル

そうした大地の呪縛からの遊離を経て、再び紀州というテーマに臨んだとき、そこにはまた2年前の「紀州叙事詩」からの大きな展開があった。
夜明け前を思わせる青藍色の空に流れる雲も、山火事が空も野も真っ赤に染めたような風景も、意識してかせずか、何か特定の形や色を捉えて描こうとする態度とは異なるものだった。
描かれていたのは、紀州の大地そのものというより、大地と空のあいだに満ちた大気、その神話的な土地の霊性を帯びたエーテルだった。

地霊(ゲニウスロキ)は、しばしば蛇の姿で描かれるという。地を這うものとして、蛇は微かな起伏にも奥深い秘密の穴にも、土地のあらゆる消息に通じた存在、地母神的な大地と表裏の関係にある性的な存在といえるだろうが、花井のゲニウスロキは、まさに大気に満ちた気として、いまやその土地一帯のあらゆる微細な空間に、どんな穴も押し広げず、どんな丘も突き崩さずあまねく浸透する中性的、あるいは無性の存在となっているようである。そのような一切にいきわたった土地の霊=精神が紀州の心象風景のなかに描かれていた。

これはまた、何か“ムード”や、雰囲気の話ではない。作品がそうした曖昧なものへ向かうどころか、いっそう力強くなっていたのは、そこに土地の精神と一体になったかのような画家自身の精神の輪郭が刻まれていた、その形なき輪郭が鋭く刻まれていたからである。
精神――精神とは何だろうか。
古くから宗教の教義や哲学の学説が教えるように、それは(ときに日本語で「霊」とも呼ばれながら)この世界に肉体と共にはじめからセットで備わっているものだろうか。
こうして私たちはあいもかわらず肉体と精神の二項のあいだを往還しつづけるのだろうか。

そうではない。精神とは、肉体と、肉体と相即不離に結びついた心が抱く憧れ、あるいは理想――肉体の次に来るものの名である。
いうまでもなく絵の制作とは観念ではない。パステルという画材で延々と画紙を塗り込めていく花井の制作過程もまた途方もない肉体的営為である(多くの鑑賞者がすべてパステルで描かれていると聞いて心底驚く)。
作品とは、ひとりの作家の心身の消耗的‐歓喜のなかでおこなわれる労働の産物にほかならない。

ところが、その一種の唯物史観の弁証法に浮力を得たように、いま花井の絵は大地の呪縛を離れ、自由に遍在する精神の方へと近づいていくようである。
精神の高みへの道? 蜃気楼に過ぎないあの精神の幻影への?
さんざ踏みならされてきた、どこへもたどり着かない不毛な道をいままた歩まされるという、これは陥穽だろうか。
否、自分の脚で歩く者にだけもたらされる、これは恩寵である。その求道者にのみ、道はおのれの姿を現わす。
 


道の上で

これまでのすべての時期を通じて、花井はしばしば、夜更けの道路を走るヘッドライトの残像、彼方にともる家の灯を風景のなかに描き込んできた。
運命が猛威をふるうこの地上で、人はそのようなかぼそい線、そのような小さな点としてしかサインを送ることができない。
その光景はいかにも寂しい。としても、花井の筆になるとき、それは単なる風景ではなく、魂のありかを示す光となる。
それは単なるあかりではない。そこにともっているのは人の魂である。
それだけで涙がにじむようなのは、だからだろうか。

画家は夜更けの道を駆け抜けながら、黒々と大きな山影の裾野にともるその小さな光をみつめ、そこにはかなく明滅する魂のいとなみと悲しみに思いを馳せている。
画家にとってその家々が、そのあかりがそんなにもいとおしく心ひかれるのは、それが通りすがりの見知らぬ家ではなく、そこが、そのドアを開けるところからこの旅をはじめた、まさにその家だからかもしれない。

だとしても、花井のドライブはつづき、いまやそこが家だというように路上にいつづける。
彼女が道を呼び、道は彼女を遠くへと運びつづける。
どれほどあの家々が懐かしくとも、そのひとつひとつを目に焼きつけながら、それが後方へ流れていくのをただ見送るだけ。
このドライブはたとえ半島の果て、岬の先端にたどりついても終わることはないのだろう。
人々が通い慣れた国道を、花井は一本の杣道(そまみち)のように歩む。

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花井正子は2024年9月12~22日にART SPACE 感で作品展を予定している。

 

山本貴士

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